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あなたに神様の祝福と愛を届けたい!!!毎日曜日の礼拝の説教要旨やローズンゲン、書斎に転がっているものを並べます!!!

人生を変える一言 2019年9月29日 主日礼拝説教 週報No.26

ルカによる福音書7:1~10

エスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」ルカによる福音書7:9

《本日の講壇》

説教者 広瀬香織牧師(新居浜教会)

  皆さんは人生を変えるような一言に出会ったことがあるでしょうか。それぞれ座右の銘とか、この御言葉によって励まされたなどという言葉があるかと思います。わたしは東京の渋谷が遊び場所だったのですが、15歳の時に、たまたま渋谷の駅前で聖書を配っている団体があり、その団体から新約聖書を頂きました。何が書いてあるのかと思いマタイによる福音書から読み始めると、最初は訳の分からないカタカナの名前が羅列してあり、さらに読み進めてゆくと、イエス・キリストの説教が書かれていました。その中で最も衝撃的だったのが、マタイ5章39節『誰かが、あなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。』の御言葉でした。私なら、右の頬を打たれたら、おそらく倍返しするだ ろうなぁと。『誰かが、あなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。』などという人は、よほどの大馬鹿ものか、大天才かのどちらかだろうなぁ。と思ったわけです。こうしてイエス・キリストという人物に非常に興味が湧いて、自分なりに求道して、色々と神様を試したのです。不思議なことに神様を試すたびに、神様はみな私の小さな願いを聞き入れてくださったのでした。神様を試せば、試すほど神様の真実を知らされ、いつしか、イエス・キリストはわたしの個人的な救い主となって下さいました。そして16歳で東調布教会で受洗、短大卒業後、東京聖書学校に入学したのです。そしてつくづく思うのは、あの時に聖書を頂いて良かった!主イエス様を知らない人生だったら、どんなに人生に絶望 していることかと思うのです。当然、今日こうして香川教会の皆様とも出会っていなかったことでしょう。
 ですから、わたしにとって、人生を変えるような一言は『誰かが、あなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。』でありました。
  さて、今日の聖書箇所にも、イエス様の一言によって救われた人物が出て参ります。ここには百人隊長という人物が出て参ります。彼はローマの兵隊百人を率いる部隊の隊長でありました。「百人隊長は」ローマの主力を担う存在であり、軍曹にあたる位をもっていました。歴史家のポリビオスという学者は百人隊長の資格についてこのように述べております。「命令を発する者として危険を求めすぎてはならず、行動においては冷静かつ信頼のおけるものでなければならない。性急に戦闘に入り込むようではいけない。切迫した戦況においては自分の部署を死守する覚悟をもたねばならない。」このようにあります。ですから百人隊長というのは、勇気ある決断ができると共に、冷静かつ慎重であり、部隊を命がけで守り抜くことができる人徳も備えていなければならないということが分かります。彼もまた勇気と決断力のある人物 であり、僕に対して並々ならぬ愛情を注ぐこともできる人物でした。ですからこの百人隊長は部下からも敬愛されていたのではないでしょうか。さらに、彼はユダヤ人たちを愛して私財を投げうって、ユダヤ人のために会堂も建ててあげていました。(ルカ7章5節)
 しかし、一般的に普通百人隊長というのは、ユダヤ人からは嫌われていました。それもそのはず、ローマは支配者側ですから、ユダヤ人から見れば、ある意味、彼らは自分たちの生活を圧迫する敵にさえ見えたことでしょう。しかし、ここに登場する百卒長は、他の百人隊長と違い、信仰も篤くユダヤ人を愛していたのです。
 このように立場の違い、民族の違い、支配する側と支配される側という構図がありながら、それらを越えて、ユダヤ人からも慕われていたことが伺えます。ユダヤ人というのは、とても民族意識の強い民族です。そのユダヤ人が彼を高く評価しているのは、よほどのことであると思われるのです。彼は自分の死にかかっている部下の病気を真剣に心配し、ユダヤ人長老をイエス様のもとに遣わし助けを求めたのでした。しかし、どうしてユダヤ人長老をイエス様のもとに遣わし助けを求めたのでしょうか。それは彼がユダヤ社会においては、自分が異邦人であり、イエス様にお会いして、救いを求める資格がないと思っていたからであります。ここに彼の謙遜さを伺うことができます。イエス様はすぐに、その百人隊長の願いをかなえるために、部下のもとに向かうのですが、家の近くになりますと、さらに彼は友達を遣わし、「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そしてわたしの僕を癒して下さい。わたしも権威のもとに置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に「行け」と言えば行きますし、他の一人に「来 い」と言えば、来ます。また部下に「これをしろ」と言えば、その通りにします。」と伝言したのです。
 軍隊の中では上からの命令は絶対でした。彼は言葉の重みというものを誰よりも深く知っていたのです。他の一人に「来い」と言えば、来ますし、また部下に「これをしろ」と言えば、その通りにします。もし、その言葉に反するようなことがあれば、死をもって償うことも求められるのです。ですから主イエスの一言というのは、どれほど重いものなのか。それを彼は知っていたのです。
 創世記1章を読むときに、神さまは天地万物すべてのものを言葉によって創造しておられます。神様が『光あれ』と言葉を発すると光が現れ、この世界に昼と夜ができ、次の日には『水の中に大空あれ。水と水を分けよ。』と言われ、その通りになり、こうして次々と、世界が創造されてゆく様子が記されています。さらにヨハネによる福音書1章をみても、『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、はじめに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。』とあります。まさに言=(イコール)神様なのです。
 逆に、現代社会は言葉のインフレです。愛、愛といわれながら、その言葉の重さが失われ、言葉だけが空しく響くこともあります。政治家たちが、平気で自分の言葉を覆すことも日常茶飯事です。平和、平和といいながら、海外から莫大な金額で武器を買っています。言葉の重みというものが無くなっている現代です。人の言葉とは何とコロコロ変わりやすいものでしょうか。しかし、神様は真実な方ですから、神様の御言葉は、昨日も今日も、永遠に変わることはないのです。
  この百人隊長は主イエスの言葉の重みというものを、しっかりと受け止めていたのです。ですから『主イエス様がただ一言おっしゃってくだされば、癒される。』という信仰を持っていたのです。それこそが私たちクリスチャンが持つべき、神様の御言葉への態度ではないかと思います。
  しかし、時にわたしたちは神様の御言葉さえも割引して考えてしまったり、昔と現代の社会は違うのだ、と勝手に神様の御言葉を解釈したりすることはないでしょうか。それはサタンの罠です。私たちは、この百人隊長のように、神様の御言葉を神様の御言葉として重く真正面から受け止めることが重要です。
  主イエスは百人隊長の信仰に非常に感心し、ご自分に従っていた群衆に言われました。『言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。』(ルカ7章9節)そして使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は癒され、元気になっていたのです。これが神様の言葉に対する信仰です。他の平行記事を読みますと、主イエス様の癒しの言葉について書かれています。それはマタイ8章13節『帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように』、ヨハネ4章50節では『帰りなさい。あなたの息子は生きる。』この言葉が発せられた時、僕の病気は癒されたのでした。これがまさに神様の御言葉のお力なのです。神様の御言葉は距離も時間も越えて、成就したのです。神様の愛というのは、受け止める信仰がある者には、時間も空間も超えて成就するということがここから分かります。光の速さよりも、速いもの。それは愛なのです。他人から見たら愚かに見えたとしても、御言葉を握りしめて生きる人というのは本当に神様の祝福があり、強いです 。神様の言葉に信頼する者には、失望はありません。神様は言われたことを必ず成して下さいます。
  ある人の聖書に、ひらがなで、「や」と「ほ」の字が書き込まれていました。その人は神様の言葉に大変信頼する人でありました。その人は聖書の言葉を日常生活の中で実践しようと思い、自分が実際に実行してみた御言葉には「やってみた」の「や」を書き込み、それが本当だった時、本当の「ほ」を書き入れました。すると、聖書の言葉は本当だったことから、この人の聖書は「や」「ほ」「や」「ほ」と書かれています。そしてこの人は「自分は色々な御言葉に従い、実際行動してみましたが、本当でした。」と恵みの体験談をして下さいました。この百人隊長のように、御言葉に信頼しきる時に、神様の奇跡は起こるのです。それは御言葉を信頼しきった者に与えられる特権です。聖書には誇大広告はありません。すべて現実となるのです。神様のお言葉は、民族、時代、物理的距離を超えて、永遠に真実であり続けます。
  新居浜教会にも御言葉を信頼したことで、沢山の奇跡がありました。新居浜教会は子ども食堂を行っていますが、まだ子ども食堂という概念が世間にない、2004年から子どもの貧困に対する取り組みをしてきました。この取り組みを通しても、本当に神様の御言葉は真実だと思わされ続けて参りましたので、少し新居浜教会の取り組みを紹介したいと思います。
  2004年穏やかな春のある日、バターン!!突然、教会の扉が勢いよく開き、見知らぬ男の子が飛び込んできた!男の子は焦り、怯えている様子で私に言った。『匿って下さい!いじめっ子に追われているのです!!』ただならぬ様子に私は驚きつつ、とにかく彼を教会に匿い、扉に鍵をかけた。そっと窓から外の様子を伺うと、数人のいじめっ子たちが、キョロキョロと辺りを見まわして、彼を必死に探していた。これは大変だ!と思い、しばらく匿っていると、その男の子は教会の台所にいた。なんと彼は冷蔵庫を開けて、食材を全部食べつくしていたのだった。驚いた私は、彼に事情を聞かずにはおれなかった。彼 ( 以降、 「 Kくん 」と記す。 ) はポツリ、ポツリと自分の身の上を話してくれた。Kくんは中学1年生。学校でいじめられており、下校時には、いじめっ子に追いかけられたり、時には田んぼに突き落とされることもあると言う。父子家庭で、父親は仕事の関係で帰宅は遅く、母親は自分が小さい時に、家を出て行ってしまった。家は半ばゴミ屋敷になっている。食べることが出来る時に思い切り食べておくのが、家のルール。学校では、支援学級にいる。との事だった。彼は幾つもの課題を抱えていたことが分かった。大変だなぁと思いつつも、その日は、いじめっ子がいなくなったのを確認して、彼を見送った。しかし、なんとKくんは次の日も、また次の日も放課後、教会に来たのだった。こうして彼と過ごす二人三脚の歩みが始まり ました。彼 の宿題を見たり、料理の作り方などを教えたり、作った料理を一緒に食べたりするようになった。Kくんの家をボランティアメンバーと一緒に掃除しに行くこともあった。環境を少しずつ整え、彼と関わってゆく中で、Kくんの学力はメキメキ上がり、表情も明るくなった。その結果、なんと彼は支援学級から普通学級へと移行したのでした。そのことで自信を持てたのか、不思議と学校でいじめられることも少なくなっていった。彼の変貌ぶりに驚いた中学校の担任教師、校長、教頭、さらには小学生時代からの教師たちまでも新居浜教会にわざわざお礼においで下さったこともあった。今、思い出しても大変恐縮な事だった。しかし、驚いたことに、そこからさらなる展開が始まった。なんと彼のうわさを聞いた 子どもたちが次々、教会にやってくるようになりました。しかし、何の援助も世間の理解もない中で、貧困のこどもたちに向き合うことは困難を極める働きでした。しかし、神様は「私の羊を養いなさい。あなたは5000人の給食の奇跡の物語をしらないのか。」とおっしゃるのです。百人隊長のように素直に従ったわけではありませんが、わたしはただ、ただ御言葉に従いました。
 すると、ついに教会だけでは手狭になり、隣地約200坪を全国募金で購入。そこに子どもたちの居場所として学習館を建築した。2016年8月に『新居浜子ども食堂村松木店』と命名し、愛媛県東予で初となる『子ども食堂 ( 学習支援、食育、保護者支援を兼ねた活動 ) を開店することができたのです。Kくんと出会った2004年当初から数えると、なんと延べ人数約2万人もの親子が教会に通い、一緒に遊んだり、勉強したり、食事を共にしたことになる。これら全てのことの始まりはKくん1人との出会いがきっかけだったことを思うととても感慨深い。いまでは、親たちを支えるために、シングルルマザー、シングルファーサーの会、アルコール依存症回復ミーティングなども行っている。またフードバンクと提携し、常に要請があれば、食料を配達できるようにしています。御言葉に従ってみて、本当に神様の5000人の給食の奇跡というのは、本当だったのだと思いました。みんなが満腹して、さらにあまりがあるのです。
  御言葉に従っていなければ、新居浜教会に到底、教育館など建っていなかったと思いますし、「こころの友」の連載の載せて頂くなどということも決してなかったと思います。本当に神様は真実なお方です。
 また神様の愛に差別はないということです。神様は百人隊長もユダヤ人も愛しておられますすべての人は神様に愛されています。なぜなら、神様はわたしたちの造り主であり、わたしたちのことを最高傑作とおっしゃってくださっているのです。イザヤ書43章には「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」と記されています。私たち一人ひとりは、年齢、性別、立場関係なく、神様は大切におもっていてくださる存在です。御言葉に信頼し、神様の愛の中を歩んで参りましょう。

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